福田恆存飜譯全集

第一卷 ワイルド篇

帶 「纖細な感受性と溢れるやうな機智、そして獄中での苦惱」

代表作「ドリアン・グレイの肖像」「獄中記」以下全八篇を收めたワイルド篇に、笑ひの脚下に「悲劇の瀑布」をのぞかせる、サーバーの「現代イソップ」を併録。

ワイルドが第一詩集を出した翌年、即ち一八八二年、アメリカの講演旅行に招かれ、ニュー・ヨーク港に初めて著いた時、税關で所持品の申告を求められ、彼はかう答へてゐる、「私は生れながらの天才以外に申告すべき持物は何もありません。」と。が、ジッドに對しては、ワイルドはかう言つてゐる、「私は自分の天才のすべてを自分の生活に注いだ、作品に注ぎ込んだのは唯の才能に過ぎない。」と。この二つの言葉の間には十八年の歳月が横たはつてゐる、文壇的成功、社會的名聲、そして醜聞、獄中生活、破産が。ニュー・ヨークの税關史の前に立つてゐたワイルドは唯美主義の寵兒であつた。ジッドに向かつて「作品に注ぎ込んだのは唯の才能に過ぎない」と答へたワイルドの言葉にはモラリストの面目躍如たるものがある。(「解説」より)

一 O・ワイルド

二 J・サーバー

第二卷 ロレンス篇T

帶 「人はいかにして他人を愛することが出來るか?」

近代の心理主義、理智主義の限界を打破つて生命の根源にまで遡り、人間の性の本質に肉簿する長篇小説「戀する女たち」

ロレンスの小説を讀んできた人々はすでに氣づいてゐようが、ロレンスといふ作家は作品の構成のうへでしばしば弱點を示す。ことに緻密な論理的構成をもつたフランスの小説に親んできたわれわれには、ロレンスの人間描寫がいかにも粗雜で、登場人物の心理や行爲がなんの必然性もなく展開されてゆき、ときには冗漫であるやうに感じられる。極端にいへば、自分の理想を主張するため、その場その場でつがふのいいやうに、登場人物の心理をねぢまげたり、かつてにある行爲から他の行爲へと轉換させたりしてゐるやうに思はれるかもしれない。たしかにさういふ所もないではない。しかし、さういふ非難でかたづけられないものがロレンスにあるといふことを、われわれは讀みとらなければならない。

第一に、ロレンスは從來の心理主義的方法では捉へられぬ人間の正體を捉へようとしたといふことである。……

第二に、ロレンスが詩と小説と評論とは問はず、さらに旅行記や書簡を通じてまで、その生涯の主題としたものは、人はいかにして他人を愛することが出來るかといふことである。……(「あとがき」より)

一 ロレンス

第三卷 ロレンス篇U

帶 「苦惱、歡喜、憎惡、獻身――人間存在の本質とは果して何か?」

ロレンスの思想の最も凝縮された表現である劇藥「默示録論」を始め、「てんたう蟲」「死んだ男」の二つの短篇小説、キュリーの描く「戰塵の旅」、そしてストイシズムの古典、ヘミングウェイの「老人と海」の五篇。

おそらく、聖書中もつとも嫌惡すべき篇はなにかといへば、一應、それこそ默示録であると斷じてさしつかへあるまい。私は十歳にもならぬうち、この書をすでに十たびは聽いたり讀んだりしてゐた。そのくせじつはなんの理解もしてをらず、あへて本氣に注意を拂ふといふこともしなかつた。理解もできず、よく考へてみることさへなかつたにもかかはらず、たえずそれによつてどうしやうもない嫌惡感を惹き起されてゐたといふことだけは、もうたしかな事實である。牧師、ヘ師、俗籍の人のいづれを問はず、聖書を讀みあげるときに誰でもが捉はれるあのいかにも恭しげな口吻、嚴肅きはまる、こけおどしな、どぎつい調子、さういふものに對して私は幼いながらもすでにただならぬ嫌厭の情を――それと自覺してゐなかつたにしろ――感じてゐたにちがひないのだ。あの《牧師》特有の聲音を私は骨の髓から嫌惡する。そしてこの聲が默示録中のある部分を勿體らしく讀みあげるとき、私はいまだに忘れられないのだが、事態はつねに最惡のものとなつた。(「默示録論」より)

一 D・H・ロレンス

二 E・キュリー

三 E・ヘミングウェイ

第四卷 シェイクスピア篇T

帶 「日本語で讀むシェイクスピアの魅力」

「リチャード三世」「タイタス・アンドロニカス」「じやじや馬ならし」「夏の夜の海」「お氣に召すまま」――善と惡、崇高と陋劣、また哄笑と饒舌。シェイクスピアの人間觀と、譯者の人間觀とが斬り結ぶ名譯全五篇。

『夏の夜の夢』の劇的構成は實に巧みである。右に述べた三つの筋が、それぞれ異なつた肌あひの劇形式と異なつた世界の登場人物をもちながら、いささかの隙もなく緊密に組合はされ、一枚の美しいタペストリーを織りなしてゐる。しかも、そこには才氣ばしつた作意が微塵も感ぜられない。すべてが自然に流露してをり、繼ぎ目が見えたり、隙間風が吹いたりしてゐない。妖精の振りまく「野の露」が、あたかも潤滑油のやうな働きをしてゐて、三つの異質の世界が見事に溶けあつてゐる。しかもシェイクスピア作品中、この『夏の夜の夢』は「夏至の夜」のやうに最も短いが、讀後の印象は「夢」のやうに豐穰である。(『夏の夜の夢』解題より)

一 W・シェイクスピア

第五卷 シェイクスピア篇U

帶 「日本を代表する飜譯の金字塔」

時代と國とを超えて、悲劇のうちに自ら顯ち現れる人間の高貴。あるいは史劇に愚劣と叡智とを雙つながら視る。――格調高き文體によつて贈る「ロミオとジュリエット」「リチャード二世」「ヴェニスの商人」「ヘンリー四世」「空騷ぎ」の五篇。

リチャード二世の性格は私には甚だ興味がある。シェイクスピア研究の權威シェンボームヘ授に「愛すべき詩人」「統治するより詩作に耽ることに向いてゐる優柔不斷な王」といふ言葉が出て來る。實際、文學好きな王であつたことは確からしい。しかし、私が『リチャード二世』の性格に興味を惹かれたのはその「幼兒性」とでもいふべきものである、「人の善さ」といつてもいい、あるいは「甘えん坊」といつてもいい。リチャードの祖父エドワード三世は男女併せて十數人の子持ちであつた。その長子がリチャードの父、勇猛果敢なK太子であるが、彼は父の死より一年早くこの世を去り、リチャードが代つてエドワード三世の死後、わづか十歳で王位を繼いでゐる。殆ど物心つくと同時に、一大王族の長として王位に就いた彼は我燼放題に甘やかされて育つたに違ひない。欲しいものは何でも手に入り、誰もが自分に追從し、世界は自分の思ひのままに動くと信じたであらう。自分を抑へることを知らずして王となり、幼兒がそのまま大人となつたのだ。シェイクスピアの目は過たずさういふリチャードの性格の核心を射ぬいてゐる。(「リチャード二世」解題)

一 W・シェイクスピア

第六卷 シェイクスピア篇V

帶 「人は演戲する、あたかもハムレットのやうに!」

「ジュリアス・シーザー」「ハムレット」「マクベス」「オセロー」――。英國人のみならず、日本人にもなじみの深い悲劇の傑作群!

シェイクスピアの『ハムレット』について、いつの時代に、誰が、どう言つてゐるかは、「批評集」に讓ることにして、私がこの作品を、のみならず一般にシェイクスピアをどう考へてゐるかについて簡單に述べておく。それが飜譯者の責任といふものであらう。どの作品の場合でもさうであらうが、飜譯には創作の喜びがある。自分が書きたくても書けぬやうな作品を、飜譯といふ仕事を通じて書くといふことである。それは外國語を自國語に直すといふことであると同時に、他人の言葉を自分の言葉に直すといふことである。さういふ創作の喜びは、また鑑賞の喜びでもある。本當に讀むために私は飜譯する。さらに戲曲の飜譯においては、演戲し演出する喜びが伴ふ。實際に演戲し演出する機會の有無は別として、その行動意欲なしに戲曲の飜譯は不可能であり無意味である。

私のシェイクスピアの飜譯を評して舞臺の上演を主眼としたものであると言つて、暗にその偏してゐることを諷した英文學者があり、また自分はシェイクスピアが書いたとほりに譯すと稱して、あたかも私の飜譯が意譯に過ぎるかのやうな當てつけを書いた飜譯者がある。いづれも過つてゐる。私の飜譯を待つまでもなく、シェイクスピア自身、舞臺の上演を主眼として、いや、上演のために、すべての作品を書いたのである。(「ハムレット」解題)

一 W・シェイクスピア

第七卷 シェイクスピア篇W

現在私が持つてゐる第七卷には、帶がありません。何方か情報提供をよろしく御願ひ致します。

一 W・シェイクスピア

第八卷 戲曲篇

帶 「ギリシア悲劇からT.S.エリオットに及ぶ珠玉の戲曲集」

アリストテレスが悲劇の見本として稱揚した「オイディプス王」(ソポクレス)を始め、「ヘッダ・ガーブラー」(イプセン)、「サロメ」(ワイルド)、「天晴れクライトン」(バリー)、「聖女ジャンヌ・ダルク」(ショー)、「カクテル・パーティ」(エリオット)等全八篇。

『オイディプス王』は實に不可思議な作品である。筋があたかも推理小説風に展開し、次はどうなるかといふサスペンスに、專ら讀者の興味が集中する。もつとも、良質の戲曲は多少の例外を除いて優れた推理劇の要素をふんだんに持ち、良質の推理小説は殆どすべて優れた戲曲になり得る。アリストテレスは約前三三〇年頃に書いた『詩學』の中で、事ある毎ににこの作品を悲劇の見本として擧げてゐるが、これを推理劇と結びつけてはゐない。推理劇といふエンタテイメント(娯樂、もてなし)が當時はまだ存在しなかつたのであらう。その時、多くの悲劇作家のうちでソポクレス一人が悲劇の中に推理劇を持ち込んだだけの話である。

したがつて、『オイディプス王』はギリシア悲劇の、あるいはそれ以後今日までのあらゆる悲劇の「典型」でもなければ、「代表作」とも言へない。もしこの手法で別種のものを作つてくれと頼んでも、誰にも作れはしまい、つまり、それはただ一作しか造れぬのである。この道の行きつく先には、あらゆる劇作家の前に「立入禁止」の札がぶらさがつてゐる。『オイディプス王』はさういふ意味で、謂はば異色の戲曲である、異色ではあるが、劇といふものを煮詰めると、かういふものになるといふ意味で最も劇的だといふ、甚だ奇妙な作品である。(「オイディプス王」解説より)

一 ソポクレス

二 H・イプセン

三 O・ワイルド

四 J・M・バリー

五 B・ショー

六 T・S・エリオット